街には夏色が訪れていた。
セミの鳴き声、緑のざわめき、噴水のたたえる澄んだ清涼・・・
生命の躍動する『陽』の季節に人々は心浮かれ、そしてまた、街を賑わせる。
暖色のみに彩られたパレットには、ネガティブなど微塵も存在していないように、
次から次へと忙しなさで新しい絵の具が付け足されていく。
そんな夏色・・・
少女にはそれが鬱陶しくもあり、それは虚しいだけのモノトーンにも感じられた。
灰色のアスファルトに目を落とし、溜息を一つ漏らす。
そしてアテも無く、八重花桜梨は無機質の帰路を静かに急ぎ歩んだ。



DOUBLE REGRET

1,Nothing of regret

「ただいま・・・」
無人のリビングに返事を期待していた訳ではない。
ただ、いつもがそうであったように、花桜梨はそれに習っていただけだった。
静けさが音となってすら聞こえてきそうな空間の中、チクチクと壁掛け時計の秒針だけが
定期的なリズムで時を刻み、唯一の『動』を申し訳のようにたたえている。
無気力で佇む花桜梨には、動の要素としての存在は認められていない―
いや、自らが否定しているだけで、そこには確かに少女が存在している――筈だった。
自分に否定された自分に虚しさを感じていたのは、どちらの『自分』だったのだろう。
窓の外で、風に揺られた広葉樹が不安定にざわめいた。
灰色の心はバランスを失い、シ−ソーのように頼りなく傾き揺らめる。
訪れる刹那・・・一瞬の空白・・・
ふと、テーブルの上の果物ナイフに誘われた気がして、木製の小さなキャップをスッと引き抜いてみる。
透明な刃の輝きに映り込むのは、拭い切れないアンニュイだけの瞳。
焦点を合わせながら、次第に心臓が妙な高揚を奏で始めている事に、しばしの陶酔を覚えていた。

トクン・・・ト・・・クン・・・

不規則なメトロノームが存在するとしたら、きっとこんなテンポを打つのだろう。
気だるさが何故だか心地良い、そんな不思議な感覚に包まれていく。
「少しだけ・・・眠りたいな・・・」
ナイフの中の瞳をもう一度見つめると、花桜梨はそのまま手首に赤い筋を引いたのであった。


「・・・何か心当たりはありませんか?」
医師の事務的な口調に問いかけられても、花桜梨の母――房枝には
ただハンカチで顔を覆うことしか出来なかった。
相変わらずに青ざめた表情を伏せたまま、わなわなと肩を震わせている。
無理もないだろう。
フローリングを赤く染めていた自分の娘を発見した時は、夢だと思い直そうとした位である。
担架と一緒に乗り込んだ救急車の中でも、終止、錯乱してばかりいた。
ようやく落ち着きを取り戻したものの、今度は「何故?」という理不尽にかられ
そして悲しさと情けなさが込み上げてきた。
「分かりません・・・もう、何がなんだか・・・」
何が分からないのか、分からない。
それが正直な所、今の房枝に答える事の出来る精一杯でもあった。
そんな様子を気遣ってか、医師の表情も少しだけ親身に和らいで
「お母様の通報が早かった事もあって
 花桜梨さんの外傷そのものは直ぐに塞ぐ事が出来ました。」
チェアーの背もたれをキィと鳴らし、カルテから視線を上げる。
あながち慰め言葉という訳でもなかったようで、実際、傷口は数針の縫合のみで事を終えた。
左手首に包帯を巻いた花桜梨は今、集中治療室や呼吸器の恩恵を授かっているでもなく
多量の出血による精神的なショックから気を失い、白いシーツの上で静かな眠りに就いていた。
もっとも、精神的なショックというのであれば、房枝のそれだって相当な物であるのだが・・・
「それじゃ、娘は無事・・・という事なんでしょうか?」
伏せていた目で遠慮がちに見上げ、訊ねる。
「ええ、怪我の方は特に大きな問題も無いので
 安静にさえしていればひとまずは大丈夫です。ただ・・・」
医師が一呼吸置き、眼鏡の奥で苦々しく細めた瞳には曇りが映り込んだ。
房枝は不安そうに、それでもじっとそれを見据える。
背もたれが再び音を立て、ゆっくりと口を開いた。
「花桜梨さんは、しばらく精神病棟での入院生活を余儀なくされるでしょう・・・」


ほっぺたをくすぐる優しい囁きで、花桜梨はようやく眠りから目を覚ました。
小さな窓から吹き込んだ風が、清楚な白のカーテンをはたはたと揺らせている。
「・・・ん・・・ここは?」
何も特徴が無い・・・と言うより、物がほとんど何も無い部屋。
殺風景だが、壁紙や床に至るまで施された暖かな色使いは、むしろ疲れた心をホッとさせる。
疲れた心・・・!?
ぼんやりとした頭に手をやろうとしたその時、自分の左腕に巻かれている純白の包帯に気が付いて
そして状況に気が付いた。
(そっか・・・私・・・)
リンネルと同じ白に、一つの溜息を漏らす。
別に、後悔したとか悲しくなったとかいう訳ではない。
ただ、無性に自分が馬鹿らしく思えてきて、そんな自分の為に何かを考えてやるという事がまた
どうしようもなく下らない事のように感じられただけだ。
だから暫くは、ぼうっとして時を過ごす事にした。
時計もカレンダーも無い、真四角の個室。
敢えてそうしているのは、ここが精神を癒すための療養施設である所以であろう。
勘の良い花桜梨がその事を推して知るのに、そんなに時間はかからなかった。
ささやかに射し込んでくる太陽の変化が落ち着くに従い、やがて病室の一風景となる。
落ち着いた色の闇が訪れると看護婦が味気ないディナーを運んできたが、そっぽを向いたまま
蒼くなりかけた月の祝福だけが楽しくて、虚ろな瞳のまま、クスッと小さく笑って見せた。
点滴に繋がれたマリオネットのような腕も、何だか滑稽に見える。
怪訝な顔でそそくさと出て行った看護婦の一動が面白かった。
全てが可笑しくて、それでいて無意味なほどにくだらない・・・
閉鎖された空間の中で、少女は自分だけの世界に開放され、そこは何処よりも広く感じられた。
教室の嘲笑に磨耗され、心をすり減らす必要も無い。
窮屈でない程度の束縛を自由と感じ、花桜梨はそこに委ねられる事を自ら望んだ。
そんな同じ毎日の虚無を1週間ほども繰り返しながら・・・

 ◆◇◆◇◆
 
8月にもなると、マスコミの提供する娯楽には『怪談』なんていう物が欠かせなくなってくるらしい。
こんな科学の御時世だというのに、それはいつもながらの事であり、確固たる定番すら確立している。
話題にされる幽霊だって、人々の勝手な解釈と脚色にさぞかし傍迷惑しているであろう。
電器屋に並ぶ賑やかなブラウン管達の中でもやはり、お茶の間に知られる「お昼の顔」が
何やらそんな話題を進めているようだった。
『・・・そうです。それはカッパのミイラによる怨念だったのです!』
照明を落としたスタジオで、司会がやけに凄味を効かせてみせる。
TVの中の観覧席では「いや〜っ!」なんてワザトらしい悲鳴が起こっていたが
街頭で何気なく眺めていたカッパ・・・ではなく「おかっぱ」 は、不満そうにその頬を膨らませていた。
「もうっ!これって幽霊差別じゃない!失礼しちゃうなぁ!」
ぷんぷん!という擬音が目に見えそうな程のオーバーアクションで勢い良く両肩を上げる。
怒っている意思表示らしいのだが、妙に可愛らしげなだけで、もちろん迫力などは微塵も無い。
まだ何か言いたそうだったが、自分が『ここ』へと戻ってきた目的を思い出し
とりあえず無礼者は無視しておく事にした。
そう、『遠い場所』から舞い戻ってきた少女、佐倉楓子には、れっきとした使命があるのだ。
大切な何かを空に見たような眼差しで見上げると小さな拳を2つ作り、うんっ!と気合を入れてみせる。
そして溜息を一つ吐いて
「さて・・・と、急がなくっちゃ!」
炎天下の陽炎と人々の雑踏が混ざり込む不確かな街へと消えていった・・・
・・・筈だったが、

「あれ?おかしいなぁ・・・」
楓子は電器屋に並んだTVの前で頭を抱えていた。
3時間前と全く同じ街角の風景。
ただ違う事と言えば、いや、むしろこれが重要なのだが・・・
真上にあった筈の太陽が今は明らかに西の方角から、愛らしいおかっぱ頭を斜めに照りつけている。
照らされたおかっぱは駅周辺の交通を記した案内ボードを睨みながら、やはり頭を抱え
困りきった表情で「む〜〜・・・」と一人、唸り続けていた。立派な迷子である。
空き箱のような同じ街並みに迷ってしまうのも無理はないが
それでも普通、ご丁寧に同じ場所へと舞い戻ってくる事は稀であろう。
「花桜梨ちゃんの居る病院はこの辺のハズなんだけどなぁ・・・」
誰が聞いているでもないのだが、とりあえず、言い訳のようにポツリとこぼした。
ボードに記された赤十字は『ひびきの総合病院』。悔しそうに指でなぞってみたりする。
地図によると、ここから徒歩で15分程の場所にあるらしい。
「まったく!総合病院っていう位なら、もっと目立つ場所に有ったっていいじゃない!」
アマガエルのように頬を膨らませるのもお馴染となった。
そして「救急車が迷子になったらどうするのよ!」と更に文句を付け加えてやろうとした時、
(そういえば・・・さっき見た大きいビルに救急車、沢山止まってたっけ・・・)
何か事故でもあったのかなと横目で通り過ぎた「大きな建物」が、鮮明に蘇ってきた。
「・・・やだ、私ったら」
とたんに顔を赤らめた楓子は、咳払いを一つして、今やって来たばかりの道へと踵を返したのである。

「ふぅ・・・」
短い距離であったが、蒸し暑いアスファルトの照り返しは楓子を容赦しなかった。
さすがに先程に通り過ぎたばかりの道なので、今度は特に迷う事なく無事に・・・
いや、波乱万丈を含んだ末ではあるが、とにかく目的地へと辿り着いた。
見上げた白い壁には沢山の窓が遥かへと並び、その頂上には確かに大きな赤十字
脇には「ひびきの総合病院」と、やはりこれまた大きく書かれている。
楓子は恥かしさで再び俯いてしまいそうになったが、それはそれである。
今は第一の目標を見付ける事が出来たという事で、とりあえずポジティブに考える事とした。

ひんやりしたリノリウムの床に迎えられ、院内をキョロキョロと見回す。
何しろ広い病院なので、一つの病室、一人の患者を探し出すだけでも大変なのだ。
迷うのはもうコリゴリだと、まずは手掛かりを探す事へと必死になっていた。
同じ顔の白衣ならば、あちこちで忙しそうに歩き回っているのだが、楓子にはその内のどれにも
声をかける事が出来ない。確かに内気な彼女だが、別に恥かしくてそう出来ないという訳ではない。
なぜならば楓子は・・・
「あ!房枝おばさん!」
フロントホールのエレベーターから頼りない足取りで出て来たのは
見覚えのある懐かしい馴染みの顔だった。
一年前・・・佐倉が最後に会った時の笑顔とは別人のそれではあったが
花桜梨の家でいつも紅茶を煎れてくれた優しいおばさんの事を、見間違える筈も無い。
悲しみに暮れている表情の理由は知っている。
房枝は目の前の佐倉に気付く事もなく、そのまま通りすぎると
無表情の自動ドアを抜けて、そして陽炎へと消え込んだ。
背中が見えなくなるまでの、ほんの暫く。
佐倉はそれを見送る事しか出来ない自分に悔しさだけを感じ、キュッと唇を噛み締めた。
「E棟の女の子・・・可哀想よね」
同じ背中を見送っていた若い看護婦達も、直ぐ後ろで立ち話をしていた。二人とも新米のようだ。
こんな広い場所で患者の噂などするのは、ベテランでない何よりの証拠だろう。
あいにく盗み聞きを趣味としている訳ではなかったので、敢えて立ち去るつもりだったが
「802の娘でしょう?・・・花桜梨さんだったかしら」
(え・・・!?)
「まだ若いのに自殺未遂だなんて・・・お母さんだって大変よね」
好感を持てない新米看護婦に、楓子は意地悪くお辞儀をしてやった。

『今行くからね、花桜梨ちゃん!』

 ◆◇◆◇◆

一年前の夏、ひびきの高校を離れ、遠い街に向かった家族がいた。
新たな住居に期待と不安を馳せながら、家族を乗せたワゴン車は大門市へと向かっていた。
去り行く景色に未練を残していた少女の頭には、ずっと友達の顔だけが浮かんでいた。
窓に映るのは、別れ際に見せた悲しそうな『笑顔』・・・
だから、酒酔い運転のトレーラーが正面に迫ってきた事など、運転席の悲鳴を聞くまで気付きもしなかった。
地を裂くような衝撃で身体と共に飛ばされた意識は、燃え盛る炎の中で少女に苦しみを与える事も無く
そのまま静かに春の終わりを弔った。

今から思えば全てが過去の出来事だが、それは決して夏の陽炎では無かった。
夏を迎えて悲しみを蘇らせた少女は、自分の命を絶つ事で現実を忘れようとした。

夏の街に帰って来た佐倉楓子が感じていたのは、ただのノスタルジーでは無かったのだろう。


Continued